人材定着戦略としてのキャリアパスと評価制度~医療経営の仕組みを介護現場へ~
1. 背景:なぜ今、キャリアパスが重要なのか
介護業界における人材不足は、我が国の社会保障の持続性に直結する大きな課題となっています。少子高齢化が進み、介護ニーズが拡大する一方で、介護人材の供給は不足し、さらに離職率も高止まりしています。厚生労働省の統計によれば、介護職員の離職率は例年15%前後であり、全産業平均よりも高い水準です。この状況下では、新規採用を繰り返すだけでは問題の根本的解決にはつながりません。むしろ「いかに採用した人材を定着させるか」が最大の経営課題といえます。
そのための鍵となるのが「キャリアパス」と「評価制度」です。キャリアパスは、職員が将来的にどのように成長していくかを示す道筋であり、評価制度はその成長を支える仕組みです。評価制度は単に給与や昇進を決める手段ではありません。上司と部下が対話を行い、組織のミッションや理念を伝え、課題を共有し、改善に向けた方向性を確認する場でもあります。職員にとっては「自分の努力がどのように組織に評価され、将来にどうつながるのか」を知る機会であり、上司にとっては「部下の課題や強みを把握し、成長を後押しする」場ともなるのです。
さらに、国もこうした枠組みを重視しています。介護職員処遇改善加算の加算要件には「キャリアパス要件Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」が明記され、職位や昇給ルールの明確化が求められています。今こそ、制度的後押しを活かして評価制度とキャリアパスを整備する好機といえるでしょう。
2. 課題:介護現場における評価制度の弱点
介護現場に評価制度が根付いていない理由の一つは、施設の規模にあります。中小規模の施設が多く、施設長や管理者が日常的に現場を見渡せるため、「わざわざ形式的な評価制度を設けなくても職員の働きぶりは把握できる」という考え方が強く残っています。
確かに、顔が見える小規模組織においては、評価制度を導入するコストや手間が軽視されがちです。しかしその結果、施設ごとに評価の基準がまちまちになり、「ある施設では高評価でも、別の施設ではまったく評価されない」といった不公平感が生じます。これでは職員の納得感が得られず、努力が正当に報われていないという不満につながります。
また、多くの介護施設では役職の階層が少なく、先のキャリアの見通しが立てにくいことも課題です。「入職して数年たったが、これ以上昇格の余地がない」と感じれば、長期的に働こうという意欲は削がれてしまいます。さらに、評価は行われても給与や処遇に直結しない場合があり、「頑張っても変わらない」という思いが定着率低下を招く大きな要因になっています。
3. 医療職に学ぶ評価制度とその応用
介護業界でキャリアパスと評価制度を整えるにあたり、医療職の仕組みから学べる点は非常に多いです。医療現場は高度な専門性が求められるため、長年にわたり明確な役職制度や評価制度が整備されてきました。
医療職の評価制度メリット
透明性の高さ
医師・看護師・事務職それぞれに職階が明確に設定され、昇進の条件も規定されています。これにより「何を達成すれば次の段階に進めるか」が明らかで、職員の納得感が高まります。
スキルと役割の明文化
医療現場では、診療報酬算定や看護技術など、等級ごとに求められる知識・技術がジョブディスクリプションとして定義されています。これにより職員は、自身に不足しているスキルを把握し、学習意欲を高めることができます。
組織文化の浸透
評価面談を通じて、組織の理念や方針が職員に繰り返し伝えられるため、ミッションの共有が進みます。単なる査定ではなく「組織と個人の方向性をすり合わせる場」となっている点が大きな特徴です。
キャリア形成の見通し
医療職には「新人看護師 → 中堅看護師 → 主任 → 看護師長」といった段階が整備されており、長期的なキャリア像を描きやすい仕組みになっています。
介護業界への応用
介護職においても、同様の枠組みを導入することが可能です。たとえば「介護職員(初級)→介護職員(中級)→リーダー→主任→管理者」という段階を設定し、それぞれに求められるスキルや役割を定めます。認知症ケア、家族対応、新人指導、医療連携といった具体的な要件を明文化することで、職員は自らの課題を理解しやすくなります。
また、年1回または2回の評価面談を通じて、評価結果と次の目標をフィードバックすることで、透明性と公平性を高めることができます。このプロセスは単なる査定にとどまらず、職員の自己成長を促し、組織文化を共有する貴重な機会ともなります。医療職の成功事例を介護現場に応用することで、定着率向上に直結する評価制度を築けるのです。
4. 処遇改善加算との連動と実践
キャリアパスと評価制度の整備は、介護職員処遇改善加算の取得要件(キャリアパス要件)とも密接に関わっています。
- 要件Ⅰ「任用要件・賃金体系の整備等」
- 要件Ⅱ「研修の実施等」
- 要件Ⅲ「昇給の仕組みの整備等」
- 要件Ⅳ「改善後の年額賃金要件」
- 要件Ⅴ「介護福祉士等の配置要件」
これらは、まさにキャリアパスと評価制度を整えることで同時に達成できる内容です。したがって、人事制度を整理することが「加算取得のための手段」にとどまらず、「人材定着を図る経営戦略」としても機能するのです。
実践例
ある介護施設では、評価項目を「介護記録の正確性」「利用者・家族からの信頼」「新人教育の実施」「医療機関との連携」などに設定しました。点数評価とコメント評価を組み合わせ、その結果を給与に反映させる仕組みを導入したところ、職員の納得感が高まり、離職率が改善しました。
さらに、評価面談を「査定の場」ではなく「成長支援の場」と位置づけたことも効果的でした。上司が組織の方向性を伝え、職員が自らの成長目標を語ることで、相互理解と信頼が深まりました。その結果、職員のモチベーションは向上し、組織全体の雰囲気も活性化しました。
5. まとめ
介護現場における人材不足は、採用活動を強化するだけでは根本的に解決できません。定着率をいかに高めるかが、今後の介護経営における最大の課題であり、キャリアパスと評価制度の整備はその中心に位置づけられます。
ただし、制度の導入には課題もあります。前述したように、介護施設は小規模組織が多く、日常的に施設長や管理者の目が行き届くため「形式的な評価制度を導入しなくても十分に把握できる」という考え方が残っています。また、評価シートの作成や面談の運用には一定のコストや工数がかかるため、小規模施設ほど「負担が大きい」と感じられる傾向があります。こうした背景から、評価制度を導入する意義が十分に理解されないまま、取り組みが進みにくい状況が生まれています。
一方で、複数の施設を運営する法人においては、本部機能を活用して標準化された評価制度を導入できる点が大きな強みとなります。本部で統一的にキャリアパスと評価基準を設計し、各施設に展開すれば、職員はどの施設で働いても同じ基準で評価されるため、公平性が確保されます。これは人材の異動や配置転換を行う際にもスムーズに機能し、法人全体での人材マネジメントにおいて大きな効果を発揮します。
さらに、組織が成長し規模が拡大するほど、個別の施設長の裁量だけに頼る評価では限界が生じます。今後は法人本部が統括的な視点から各施設を支援し、標準化された評価制度を展開することが求められます。本部による制度設計は単なる「事務作業の集中化」ではなく、組織全体の人材育成方針を示す重要な経営戦略となります。
つまり、介護経営においてキャリアパスと評価制度を整えることは、単なる職員の処遇改善にとどまりません。組織が拡大していく中で「人材をどう育て、どう活かすか」を法人全体で考える仕組みをつくることにつながります。これにより、職員は「やりがい」と「公平な処遇」を実感し、安心して長く働きたいと思える環境が整います。そして、それは利用者にとっても質の高い介護サービスの継続的な提供につながり、地域社会における法人の信頼性や存在感を高めるものとなるのです。
この記事の執筆者
事務長さぽーと株式会社
代表取締役 加藤隆之
医療法人おひさま会 事務局長・理事、中小企業診断士、MBA
病院向け専門コンサルティング会社にて全国の急性期病院での経営改善に従事。その後、専門病院の立ち上げを行う医療法人に事務長として参画、院内運営体制の確立、病院ブランドの育成に貢献。M&A仲介会社(日本M&Aセンター上席研究員)を経て起業。現在は、病院・企業の経営支援の傍ら、アクティブに活躍する病院事務職の育成を目指して各種勉強会の企画・講演・執筆活動など行っている。共著に「事例でまなぶ病院経営 中小病院事務長塾」「事例でまなぶ病院経営 事務管理職のすすめ」がある。

