日本の薬の歴史
日本の薬の歴史
日本では、薬の歴史は神話の時代から始まります。
『古事記』や『日本書紀』には薬草や温泉による治療が記されており、飛鳥・奈良時代には中国から漢方医学が伝えられ、平安時代には宮廷医師が薬草を調合し、『医心方』という日本最古の医学書が編集されました。
戦国時代には戦傷の治療や滋養強壮のために薬が広く使われるようになり、江戸時代には「和薬」と呼ばれる日本独自の薬が発展し、社寺や藩など、売薬が各地で作られる中、中期ごろには京や大阪・江戸の大都市や門前町に薬屋が大きな店舗を作り、立派な看板を掲げ盛んに、薬を販売していました。
また、年に一度、薬屋さんが各家庭を訪れ、薬を置き、翌年使っただけの代金を受け取る配置売薬では、富山売薬をはじめ、大和売薬(奈良)・近江売薬(滋賀)・田代売薬(佐賀)などが盛んでした。
配置売薬は江戸中期から急速に全国に普及し、人々に親しまれました。全国で起こった薬の製造・販売の「売薬」は、近代の製薬業の基礎となっています。
江戸時代後期には、オランダとの交流西洋医学が導入され、「蘭学」が発展しました。杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳は、日本における近代医学の突破口となりました。明治時代には、西洋医学が正式に導入され、薬学教育が始まったのです。
比較と交流
日本の薬の歴史は、中国やオランダをはじめとする外来の知識を積極的に取り入れて発展してきました。西洋では、ギリシャ・ローマの伝統を基盤としつつ、科学技術の発展とともに薬学が進化しました.
特に近代以降は、世界中で薬の研究が急速に普及し、感染症や生活習慣病への対応が求められる時代となっています。日本の製薬会社もグローバルな市場で重要な役割を果たしており、日本の伝統漢方薬と西洋医学の融合が進んでいます。
豆知識
「 匙加減 」
もともとは、匙ですくう薬の多少を「匙加減」と言いました。
患者を生かすも殺すも、この待医の「匙加減」一つで決まったことから派生して物事を扱う場合の状況に応じた手加減、手心の加え方を表す意味としても広く使われています。
「 匙を投げる 」
医者が匙を投げ出すことから、患者に治る見込みがないと診断して治療を断念することです。物事の見込みがないとあきらめて、これ以上やってもしょうがないと見放す意味で使われるようになりました。
コカ・コーラの誕生
1886年に薬剤師のジョン・S・ペンバートンは、ワインにコカの成分を溶かし込んだ「フレンチ・コカ・ワイン」という薬酒を開発しました。
「コカ」とはつまり「コカイン」のことで、コカの葉から抽出したコカインの成分が微量含まれていました。
コカの葉には鎮痛や疲労回復の効果があるとされており、アルコールとコカインが組み合わさることで、うつ状態を改善し、活力を与える薬として人気商品となりました。
しかし、当時欧米で巻き起こっていた禁酒運動が盛り上がりを見せ、ペンバートン氏が作ったアルコール飲料も非難対象となってしまいました。当時コカインは麻薬とは考えられておらず、コカインより酒の方が問題視されていたわけです。ペンバートン氏は禁酒中でも飲めるコカを使った飲み物を模索し続け、コーラ原液を水と間違えて炭酸水で割るという偶然が重なり現在のコカ・コーラが完成しました。
初期のコカ・コーラには微量のコカインが含まれていましたが、1904年以降はコカインが除去され、現在はもちろんコカインは含まれておりません。
ペプシ・コーラの誕生
ペプシ・コーラは1893年にカレブ・ブラッドハムという薬剤師が考案しました。「消化を助ける飲料」を目指し、消化酵素「ペプシン」とコーラの実を使った炭酸飲料を作りました。消化を促進する酵素として知られており、ブラッドハムはこの飲料が胃の調子を整える効果を持つと考えました。
ペプシ・コーラは「消化を助け、元気を考える飲み物」として薬局で販売され、清涼飲料としての人気が高まりました。
薬から飲料への転換
コカ・コーラとペプシ・コーラは、もともと薬局で薬として販売されていましたが、やがてその味や爽快感が一般消費者に受け入れられ、清涼飲料水としての地位を確立しました。コカ・コーラ、ペプシ・コーラとも、薬剤師の薬学的知識に基づいて誕生した飲料であり、薬としてのルーツを持っています。これらの飲料は薬局から始まり、世界中で愛される清涼飲料水へと発展しました。薬学の歴史が、現代の飲料文化に意外な形で影響を与えました。ちなみに現在のレシピ詳細はどちらも非公開となっていますが、原材料は糖類、炭酸のほか、酸味料、カフェイン、カラメル色素とされており、薬としての要素は一切なくなりました。
抗生剤の歴史
抗生物質の開発は、医学史における画期的な出来事であり、多くの命を救うために貢献しました。その発展の歴史は、偶然の発見と科学的探索の積み重ねによって取り組まれました。
抗生物質ができる以前の感染症治療では、19世紀初頭まで、感染症は人類にとって大きな問題でした。外科手術や出産による感染症が多くの人命を亡くし、結核や肺炎、梅毒などの不治の病とされていました。
19世紀後半、ルイ・パスツールとロベルト・コッホによって細菌が病気の原因であることが証明され、細菌学が急速に発展しました。
抗生物質の歴史は、1928年にイギリスのアレクサンダー・フレミングによるペニシリンの発見から始まります。フレミングは、実験中に放置していたブドウ球菌の培養皿に青カビ(Penicillium notatum)が存在しているのを発見し、その周囲の細菌が死滅していることに気づきました。
フレミングは、このカビが細菌の成長を阻害する物質「ペニシリン」を産生していることを突き止めましたが、抽出・精製することができませんでした。
ペニシリンの実用化が進んだのは、1940年代の第二次世界大戦中でした。 イギリスのハワード・フローリーとエルンスト・チェインはペニシリンの精製方法を開発し、臨床試験を経て大量生産に成功しました戦争中、ペニシリンは負傷兵の感染症治療に使用され、多くの人名を救い、フレミング、フローリー、チェインは1945年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
ペニシリンの成功を受けて、世界中で新たな抗生物質の探索が行われました。
- 1943年:アメリカのセレマン・ワクスマンはストレプトマイシンを発見しました。ストレプトマイシンは結核に対して効果を示し、結核治療の大きな転換点となりました。
- 1947年:クロラムフェニコールが発見され、広域抗生物質として多くの感染症に使用された。
- 1950年代:テトラサイクリン、エリスロマイシンなどが開発されました。
1950年代から1970年代にかけて、多くの抗生物質がやがて発見され、「抗生物質の黄金時代」と呼ばれました。 この時期には、さまざまな種類の抗生物質が開発され、多くの細菌感染症に対して治療が可能となり、抗生物質の普及により感染症の死亡率は大幅に低下しましたが、抗生物質耐性の問題となる耐性菌が出現しました。
現在では、抗生物質の過剰使用を防ぐための対策や、新たな抗菌薬の開発が進められています。
ARM
ARM(Antimicrobiological-Resistant Microorganisms:薬剤耐性微生物)は、抗生剤や抗菌薬などの抗微生物薬が効きにくくなる、または効かなくなることを意味し、世界的に深刻な問題となっています。
ARMと耐性菌の背景
抗生剤は、細菌感染症の治療に欠かせない薬ですが、その使い方によっては、「耐性菌」が生まれてきます。
耐性菌の発生は、抗生剤の使用頻度や使用量に密接に関連しています。
- 抗生剤の過剰使用:軽度の風邪やウイルス感染症に対して、効果がなくても抗生剤が処方されるケースがあります。
- 不適切な使用:患者が自己判断で抗生剤の摂取を中断することや、医師・薬剤師の指示に従わずに服用することが耐性菌を生む原因になります。
- 家畜・農業分野での使用:家畜の成長促進や病気予防のために大量の抗生剤が使われ、その耐性菌が発生し、人間にも影響を与える可能性があります。
世界的には、抗生剤の使用量は年々増加しています。特に発展途上国や優先国では、医療へのアクセス向上とともに抗生剤の処方が増加しており、耐性菌の問題が生じています。
- WHO(世界保健機関)によると、世界の抗生剤の約70%が動物向け、日本では約60%が使用されており、人間への使用と同等以上の影響を与えています。
- 日本でも、風邪やインフルエンザなどのウイルス感染症に対して抗生剤が処方される例が多く、耐性菌が増加しています。
耐性菌の増加を防ぐためには、抗生剤の使用量を正しく管理することが重要で、厚生労働省は「AMRアクション対策計画(2023-2027)」を策定し、抗生剤の適正使用と耐性菌の監視体制を強化しています。
- 抗生剤の適正使用:細菌感染症かどうかをしっかりと診断し、不要な抗生剤の使用を控えます。
- 抗生剤のデエスカレーション:初期治療で広域抗生剤を使用した後、効果が確認されたらより狭域の抗生剤に従来の方法が推奨されています。
- ワクチン接種の推進:予防接種によって感染症の発症を防ぐことで、抗生剤の使用を減らすことができます。
- 患者教育:患者に対して、抗生剤の正しい服用方法を指導し、自己判断での中断を防ぎます。
新紙幣の北里柴三郎
北里柴三郎(1853年-1931年)は、日本の細菌学者であり、「日本近代医学の父」とも称され、日本の医学・細菌学の発展に大きく貢献しました。
北里柴三郎の最も有名な業績の一つは、破傷風菌の純粋培養と血清療法の開発です。北里はドイツのロベルト・コッホの研究所で研究を行い、破傷風菌の純粋培養に成功しました。破傷風は細菌が産生する毒素によって生じる病気であり、この発見は破傷風病原体を特定上重要な進歩でした。
さらに、北里は細菌が産生する毒素に対抗する「抗毒素血清療法」を確立し、破傷風の治療法を開発しました。 この成果により破傷風の死亡率は大幅に低下し、多くの命が救われました。
1894年には香港でペストが流行した際に現地で調査を行い、ペスト菌の発見に成功しました。この研究により、ペストの予防と治療法が開発されました。
その後、北里研究所を設立、細菌学や免疫学の研究を行うとともに、多くの医学者を育成しました。北里研究所は、日本における感染症研究の中心として重要な役割を果たしました。現在でも北里研究所は医療・研究機関として活動を続けており、北里大学や北里大学病院などができています。
この記事の執筆者

合同会社Sparkle Relation
代表 小林輝信
北里大学薬学部卒業
【資格】
認定 薬剤師/介護支援専門員/iACP認定/MBA/
【所属団体】
一般社団法人全国薬剤師・在宅療養支援連絡会(J-HOP)会長
一般社団法人日本アカデミック・ディテーリング研究会 理事
日本老年薬学会所属
日本服薬支援研究会所属