「越境学習」は介護人材のキャリア形成に有効なのか?
「介護の仕事は現場での経験が重要だ」とよく言われます。確かに、これまで当コラムでも、介護職のスキルアップには、現場の経験から得られる「暗黙知」や「実践知」が不可欠なこと、リーダー人材を育てるために、経験からの学びを最大化するための支援が重要であることを強調してきました。しかし、現場での経験だけで、変化の激しい時代を生き抜くキャリアを築けるのでしょうか?
近年、企業の人材育成において注目されているのが、経験を組織外にまで拡張した「越境学習」です。経済産業省も、予測困難なVUCA時代に対応する人材育成の方法として、その重要性を指摘しています1)。
こうした「越境学習」の考え方は、介護人材のキャリア形成にも有効なのでしょうか? 今回は、越境学習が介護人材にもたらす意義や課題に焦点を当て、その可能性を考察します。
越境学習とは?:「いつもの環境」から離れる学び
まず「越境学習」とは何かを確認しましょう。ここでは、越境学習の理論的基盤を分かりやすく解説している石山恒貴・伊達洋駆著『越境学習入門~組織を強くする冒険人材の育て方~』(日本能率協会マネジメントセンター、2022年)2)を参照しながら、その定義を見ていきます。
同書によれば、「越境」とは「個人にとっての“ホーム”(慣れ親しんだ環境)と“アウェイ”(異なる環境)の間にある境界を超えること」と定義されています。そして、この“ホーム”と“アウェイ”を行き来することで得られる学びが「越境学習」です。下図がそのイメージです。
図:越境学習の定義
出典:石山恒貴・伊達洋駆(2022)『越境学習入門~組織を強くする冒険人材の育て方~』日本能率協会マネジメントセンター, p.29
つまり、「いつもの職場」から離れ、異なる人々と交流するなど、「いつもと異なる経験」から学びを得るという考え方です。越境学習は、本業にも良い影響を及ぼす効果が報告されていますが、なぜそのようなことが起こるのでしょうか?
越境学習が人を育てるメカニズム:核になる「葛藤」
先述の『越境学習入門』を参照しながら、越境学習が人を育てるメカニズムを確認していきましょう。
皆さんも、いつもと異なる場所やメンバーの中に身を置いて、いわゆる「アウェイ感」を味わったことがあるのではないでしょうか。見知らぬ人との慣れないコミュニケーション、当たり前に使っていた言葉が通じない、価値観や考え方が違うといった違和感や居心地の悪さ。実は、これこそが越境学習における学びの原動力「葛藤」なのです。
単に新しい環境で新しいスキルや知識を身につけるだけではなく、こうした葛藤を通じて、もがきながら新しい自分を見つけようとすること。葛藤を原動力として新しいことに挑戦すること。不安定な状態に持続的に耐えること。これらが、変化の時代に対応する柔軟性、挑戦性、そしてレジリエンス(困難やストレスに対応し回復する力)を養うことにつながるのです。
同書は、こうした「越境による葛藤からの学び」が、多くの日本企業が直面する「行き詰まり」を突破する一つの鍵になると指摘しています。
介護現場の事例:「小さな職場」を超えて、外の世界を知る
それでは、こうした越境学習の考え方は、介護人材のキャリア形成にも有用なのでしょうか? 筆者はこの点に関して、「間違いなく有効である」と考えています。
筆者が以前、介護現場のリーダークラスを対象に実施したインタビュー調査では、外部での活動が視野の広がりや自己効力感につながるとする経験談が多く聞かれました3)。
とくに印象的だったのは、以下のような語りです。
<葛藤を乗り越え、自己を再発見する学び>
- 特別養護老人ホームフロアリーダーA氏:ケアプラザへの出向経験が、自分の成長と現在のフロアリーダーとしてのマネジメントに活かされている。「俺は介護職だぜ!」という誇りが一旦打ち砕かれ、より広い視点で福祉の仕事を捉えられるようになった。
- 特別養護老人ホームフロアリーダーB氏:被災地への応援職員として派遣された経験。他県の介護職と話して、やり方や考え方の違いに戸惑い、うまくコミュニケーションがとれないこともあったが、その経験が自分の職場を見直す糧になった。「自分がリーダーとしてちゃんと成長できている」と実感できた。
<自分や組織の立ち位置を知り、自信や新たな可能性を見出す学び>
- 特別養護老人ホーム統括マネジャーC氏:組織外活動が、自分の原動力になっている。例えば外部の会議等に参加する機会を与えてもらって、そこで自分たちの施設の立ち位置を確認できて、自信と誇りが持てるようになった。
- 訪問介護統括マネジャーDさん:地域の連絡会への参加を通じて、横のつながりがどんどん広がり、「つながることで変えていける」という可能性を感じた。
こうした語りからは、「小さな職場」という枠を超えて外の世界に踏み出すことで、視野が広がり、自身の立ち位置を客観的に確認し、思考に刺激を受けるといった変化が起きていることがわかります。
とくにA氏やB氏の語りからは、アウェイでの葛藤を乗り越えた経験が、自己成長の大きな原動力になったことが鮮明にうかがえます。下図のような、職場とは異なる経験学習プロセスを確認することができます。
図:越境学習のプロセス
参考文献:石山恒貴・伊達洋駆(2022)『越境学習入門~組織を強くする冒険人材の育て方~』日本能率協会マネジメントセンター、および石山恒貴(2018)『越境的学習のメカニズム-実践共同体を往還しキャリア構築するナレッジ・ブローカーの実像』福村出版(p.58)を参考に筆者作成
介護事業所は、対利用者や職員同士の親密なコミュニケーションを大切にするがゆえに、どうしても閉鎖的になりがちな面があります。この、「小さな職場」という枠を超えて、外に一歩踏み出すことは、介護職のキャリアを豊かに築く上で、大きな意義があると言えるでしょう。
越境が経験学習の「落とし穴」を回避する
もう一つ、「小さな職場」という枠を超えて一歩踏み出す意義について触れたいと思います。それは、「経験学習」が持つ落とし穴4)を回避することにもつながるということです。
経験学習の落とし穴の1つは、現場での学習の難しさです。現場では、適切な指導者が不在であったり、時間の制約から日々の業務をこなすだけで精一杯になったりするなど、質の高い経験が限定されてしまうことがあります。
そしてもう1つは、経験学習そのものが持つ限界です。特定の環境での経験に依存しすぎると、ある種の「盲目化」や「ルーティン化」をもたらし、新たな学習につながりにくくなります。
こうした状況を回避するためには、時には「いつもの職場」「いつもの仲間」と異なる経験に触れることが不可欠です。越境学習により、職場での経験学習だけでは得られない、これまでの前提を揺さぶるようなものの見方を獲得することが期待できます。
だからこそ、変化の激しい時代において、企業内OJTや研修による人材育成だけでは限界があり、「越境学習」が新たな人材育成施策と注目されているのです2)。
越境学習を「学び」にするための組織の役割
それでは、組織は職員の「越境学習」をどのように支援したらよいのでしょうか?
筆者はまず、「小さな一歩から、できることを始める」ことが大切だと考えます5)。「いつもの環境」から離れるという観点では、例えば、次のような機会を積極的に設けることが考えられます。
<手軽に始められる「小さな越境」>
- いつもと違うフロアや部署での業務経験
- 外部研修への参加
<法人内での「越境」>
<法人外での「越境」>
- 地域の他法人との連携・人事交流
- 外部会議や連絡会等への参画
- 他機関への出向
- 地域貢献活動、災害時の被災地支援活動
ただし、ここで留意すべき重要な点があります。越境学習者は、越境先(アウェイ)で葛藤を経験するだけでなく、自分の職場(ホーム)に戻ってからも、「逆カルチャーショック」を経験するということです。
外部で新しいやり方や考え方に触れた結果、元の職場に戻って違和感を覚えたり、その葛藤を周りに理解してもらえなかったりするケースです。
これは越境学習において健全なプロセスであり、もう一つの学びの核となる「葛藤」です。しかし、その葛藤が周囲からの孤立を招いたり、時間ととも風化し、学びが定着しないままになってしまうのは、非常にもったいないことです。
組織としては、越境から戻った職員が、その経験を職場に持ち帰り、共有できる環境を整えることが不可欠です。これまでとは異なる価値観を受け入れる姿勢を明確にし、越境する人を積極的に奨励する組織風土を作ることが、越境学習の成果を最大化するために最も重要だと言えるでしょう。
(注)
1) 経済産業省「越境学習によるVUCA時代の企業人材育成」(「未来の教室」事業/社会課題の現場への越境プログラム)https://www.learning-innovation.go.jp/recurrent/
2) 石山恒貴・伊達洋駆(2022)『越境学習入門~組織を強くする冒険人材の育て方~』日本能率協会マネジメントセンター.
3) 菅野雅子(2020)『介護人材マネジメントの理論と実践: 不確実性を活力に変える創発型人材マネジメント』法政大学出版局.
4) 福島正人(2001)『暗黙知の解剖: 認知と社会のインターフェイス』金子書房.
5) 石山恒貴(2018)『越境的学習のメカニズム-実践共同体を往還しキャリア構築するナレッジ・ブローカーの実像』福村出版に示唆を受けている。
この記事の執筆者
茨城キリスト教大学
経営学部准教授
菅野 雅子
茨城キリスト教大学経営学部准教授。博士(政策学)、MBA(経営管理修士)。人事労務系シンクタンク等を経て現職。公益財団法人介護労働安定センター「介護労働実態調査検討委員会」委員。
著書に『福祉サービスの組織と経営』(共著)中央法規出版(2021年)、『介護人材マネジメントの理論と実践』(単著)法政大学出版局(2020年)など。

