介護報酬を上げるため国債を大量に発行できるか?
介護現場の人手不足解消のためには求人対策費用や賃金見直しなど経済的な問題が大きく、抜本的な解決には介護報酬を上げる必要があります。しかしそれには多くの財源が必要です。
税金などの国の歳入は増えていますが、介護報酬だけに使うわけにはいきません。それでは「国債をたくさん発行して財源にすればいいのでは?」という考え方も出来ますが、この方法は現実的なのでしょうか。
結論から言えば「技術的には可能」ですが、「経済全体への影響が大きい」ため慎重さが求められると考えられます。以下では、その理由を順を追って説明していきます。
1. 自国通貨建ての国債は「発行不可能」ではない
日本の国債はすべて「円」で発行されています。つまり、日本政府は日本円を使って借金しているということで、その円を発行できるのは日本政府と日本銀行だけです。
このため、理論的には「足りなくなれば発行すればいいのですから、円が無くなって返せない」という事態は起こりません。
アメリカやイギリスなど、同じように自国通貨建てで国債を発行している国も、デフォルト(債務不履行)を起こしたことはありません。外国通貨建ての借金(例:アルゼンチンがドル建てで発行した国債など)は、返済のために外貨を稼ぐ必要があり、支払い不能になることがありますが、日本の国債にその心配はありません。
したがって、「国債を発行して介護報酬を上げること自体は可能」ですし、返済できなくなる心配もありません。
2. 現在、発行済み国債の半分を日本銀行が保有しているが…
日本の国債(正確には日本国政府の債券)の半分は日本銀行が保有していますが、財政法第5条で「日本銀行は政府から直接国債を引き受けてはならない」と定められています。
それでは、なぜ日本銀行が国債を保有しているのでしょうか。「直接引き受けてはならない」とは決められていますが「国債を保有してはならない」とは定められていません。
そこで政府が発行した国債は、まず民間の金融機関や投資家が購入し、それを市場を通じて日銀が買う、という間接購入という方法がとられています。
この「ワンクッション」を入れることで、通貨発行を市場メカニズムの中でコントロールしているのです。
ちなみに、日本銀行が直接購入できない理由は、政府が無制限に日銀に国債を買わせることができると、日本が戦時中に「戦時国債」を大量に発行したように、その発行が制御不能になり、世界の中での円の信頼が揺らぐからです。
3. これまでの国債の買い手は「銀行」と「生命保険会社」
これまで長い間、日本の国債を買い支えてきたのは、銀行と生命保険会社でした。
日本は長く「デフレ」と「低金利」が続いており、企業の設備投資や個人の借入需要が少なかったため、銀行には余ったお金(預金)が大量にありました。その資金を安全に運用するためには、国債を買うのが最も適した選択肢だったのです。
生命保険会社も同様です。長期の保険契約(20年、30年単位)を結ぶため、安定的に長期運用できる資産が必要でした。国債は「元本保証」「安全」「長期」という3つの条件を満たしているため、運用先として理想的でした。
この銀行や生命保険会社が保有している国債を、その時々の経済状況などに合わせて日本銀行が購入していたのです。
4. 金利上昇で「国債を買いにくくなった」背景
しかし、近年は状況が変わってきました。新聞紙上でも話題になっている通り、日本銀行が政策的に金利上昇を容認したため、長期金利の上昇局面に入り国債の価格が下落しているのです。
金利が上がると、すでに発行されている国債の価格が下がるため、銀行や生保は評価損を抱えることになります。さらにこれに加えて、次のような金融規制の強化が行われています。
- 銀行に対しては「バーゼル委員会」による「金利リスク規制(IRRBB)」が導入され、長期国債を持つリスクを慎重に評価するよう求められています。
- 生命保険会社に対しては、金融庁による健全性規制が強化され、長期金利変動に耐えられるバランスシートが求められています。
これらにより、銀行も保険会社も、これまでのように大量に国債を購入し保有するメリットはなく、むしろデメリットになってきているのです。
5. 買い手が減ると金利は上昇する
市場に国債が売りに出されると、その価格は需給バランスで決まります。
買い手が多ければ市場に出回っている国債の価格は高くなるため、新規に発行される国債の金利は低く抑えられます。
逆に、買い手が減れば市場での国債の価格は下がり、新規国債の金利は上がります。
したがって、もし介護報酬を大幅に上げるために「大量の国債」を発行すれば、市場では「買いきれない」「リスクが高い」と判断され、新規国債の金利が上昇します。この金利上昇は、国の借金コストが上がることを意味します。
たとえば、10年国債の金利が0.5%から2%に上がれば、同じ発行額でも利払う利子が4倍になるということで、国家財政の持続性に対して市場の信頼が揺らぐことになります。
6. 国債金利の上昇は「銀行の貸出金利」を押し上げる
国債金利は、いわば「日本経済全体の基準金利」です。銀行の住宅ローンや企業向け融資の金利は、この長期国債金利に連動して動きます。
国債金利が上昇すると、銀行も「より高い金利で貸して利益が出せる」ため、貸出金利を上げていきます。
たとえば、国債金利が1%上がると、住宅ローンや企業融資の金利も0.5~1%ほど上がるのが一般的です。そうなると、企業は新しい投資を控え、家計も住宅購入を見送るなど、経済の活動が鈍くなる恐れがあります。
7. 金利上昇は「インフレ」や「物価上昇」を招く
国債を大量に発行して財政支出(介護報酬の増額など)を行うと、職員の賃金を上げることができます。賃金が上がれば消費も増えますから、短期的には経済にプラスの効果があります。
しかし、需要が増えれば供給(モノやサービス)は相対的に減ることになりますので、物価が上がる=インフレが起きます。さらに、金利上昇により住宅や設備のコストが上がり、企業は価格転嫁を進めますので、さらにインフレは進んでいきます。
このように、金利上昇と財政拡大が重なると、構造的なインフレ圧力がかかってきます。すると最低賃金も上昇し、他の業界も給与を上げざるを得なくなります。
8. インフレと最低賃金上昇が「介護経営」を圧迫する
介護報酬が上がっても、それを上回るスピードで物価や最低賃金が上昇すれば、介護事業者の人件費や食材費、光熱費が上がり、経営はむしろ厳しくなります。
たとえば、報酬改定が1割アップしても、物価と人件費が2割上がれば、実質的には収支は赤字に向かっていくことになります。
特に小規模な施設や地方の事業所では、すでにギリギリの経営をしているところもありますので、インフレは大きな打撃となります。
したがって、「介護報酬アップ」だけでなく、「インフレを制御する仕組み」も同時に考えなければ、経営は厳しくなっていってしまうのです。
9. それでも国債発行が「全くダメ」ではない理由
ここまでの説明で、「国債を大量に発行するとインフレを招くので危ない」と思われるかもしれませんが、実は国債の発行には一定の許容量があります。.
日本のように強固な金融システムと高い信用力を持つ国では、国債が国内で消化されている限り、急に信認が失われることはありません。
また、介護や医療、福祉といった社会保障分野への投資は、将来への不安解消による社会の安定と生産性を支える重要な支出です。
これらを「浪費」ではなく「投資」と捉えれば、国債による財源確保にも合理性があります。問題は「どれくらい、どのペースで発行するか」「どうすれば市場の信頼を保てるか」です。
10. 現実的な選択肢:バランスの取れた財政運営
介護報酬を上げるには、国債発行だけに頼らず、次のような複数の手段を組み合わせることが現実的ではないでしょうか。
- 一時的には国債発行で財源を確保し、危機的な人材不足対策を行う。
- 毎年、インフレ率に応じて介護報酬を改定する柔軟な仕組みを導入する。
- 介護の生産性向上(ICT・ロボット導入)を推進するための補助金、加算などを充実させる。
これらの政策により、国債の増発による金利上昇やインフレリスクを抑えつつ、介護事業を持続可能な分野とすることが出来ます。
この記事の執筆者
江頭 瑞穗
神奈川県出身 1987年設立の 学校法人国際学園 横浜国際福祉専門学校にて、介護福祉士、社会福祉士、社会福祉主事(任用)、保育士、幼稚園教諭などの養成を行う学科、コースの設立を主導し、事務長、事務局長を経て1991年理事長に就任。1995年同職を辞し、学校法人、社会福祉法人のコンサルタント業務を開業。
翌1996年 株式会社日本アメニティライフ協会を設立し、グループホームケアの実践を行うと共に、神奈川県、東京都に限定した介護事業を展開。現在、子会社にて日本語学校を経営するとともに、社会福祉法人理事として特別養護老人ホーム、老人保健施設、また医療法人理事としてクリニックの経営に携っている。

