認知症介護の現場で求められる「もう一つの力」
身体的なケアだけではない、心に寄り添う感情労働
アメリカの社会学者アーリー・ラッセル・ホックシールドが著書「管理される心」の中で提唱した「感情労働」という概念は、単に作業をするだけでなく、働く人が自身の感情を管理し、相手に特定の感情を生み出すことを求められる労働を指します。これは、私たちが日々の社会生活を送る上で、様々な仕事において意識せずとも行っていることかもしれません。
しかし、特に介護の現場、中でも認知症の方を支える介護の現場においては、この感情労働の重要性が際立っています。なぜなら、認知症介護は、食事や入浴といった身体的なケアだけではなく、利用者の心の状態に深く寄り添い、安心感や穏やかな気持ちを提供することが不可欠だからです。
認知症介護における感情労働とは
見えないけれど、とても大切なケア
認知症の方々は、記憶の混乱や見当識の障害などにより、時に不安や混乱、怒りといった感情を表出されます。介護職員は、そのような状況下で、常にプロとしての態度を保ちながら、利用者の感情を受け止め、平静さを保つ必要があります。
単に表面的な笑顔を見せる「表層演技」だけではなく、利用者の言葉にならない訴えや感情を深く理解し、共感に基づいて心からの言葉や態度で接する「深層演技」が求められるのです。
具体的な場面を通して、認知症介護における感情労働の必要性を考えてみます。
事例1繰り返される「家に帰りたい」
夕暮れ時になると、「家に帰りたい」と繰り返し訴える認知症の女性がいらっしゃいます。見当識が低下しているため、ここがご自身の家であることが理解できません。
「ここはあなたの家ですよ」「もう遅いから寝ましょう」と事実を伝えるだけとなり、女性の不安は解消されず、混乱を招く可能性があります。
女性の不安な気持ちに寄り添い、「そうですね、お家が恋しいですね」と共感の言葉をかけます。そして、「少しの間、一緒にお庭を散歩しませんか?」「昔のお家の様を聞かせてください」などと、女性の不安を紛らわせるような声かけを行います。過去の楽しい記憶を共有することで、女性は一時的に安心し、落ち着きを取り戻すことがあります。(介護職員は、女性の寂しさに共感しながらも、プロフェッショナルとして冷静に対応する必要があります)
事例2食事を拒否される時
食事の時間になっても、なかなか口を開けてくれない認知症の男性がいらっしゃいます。
感情労働を伴わない場合
「食べないと元気が出ませんよ」「無理でも少しは食べましょう」と促すだけでは、男性はさらに意固地になり、食事を拒否する可能性があります。
男性が食事を拒否する理由を探ります。「何か気になることはありますか?」「お口に合わないですか?」と優しく問いかけ、もし食べたくない理由があれば、それを受け止めます。そして、「もしよろしければ、お好きなものを用意しましょうか?」と提案するなど、男性の気持ちに寄り添った対応を試みます。一口でも食べられた際には、「頑張りましたね」「ありがとうございます」と心から喜びを伝えることで、男性の意欲を引き出すこともあります。(介護職員は、栄養を摂ってほしいという思いを抱えながらも、利用者のペースに合わせて辛抱強く関わる必要があります)
事例3物盗られ妄想への対応
「お金を盗まれた!」と強く訴える認知症の女性がいらっしゃいます。実際にはそのような事実はなく、記憶の混乱からくる妄想です。
「誰も盗んでいませんよ」「それは間違いです」と頭ごなしに否定してしまうと、女性は自分の訴えを信じてもらえないと感じ、さらに不安や怒りを募らせる可能性があります。
まずは女性の感情を受け止め、「それはご心配ですね。一緒に探してみましょうか」と共感の言葉をかけます。そして、実際に一緒に探したり、「大切なものはどこに保管されていますか?」と別の話題に誘導するなど、その場の状況に合わせて柔軟に対応します。女性の不安な気持ちを理解し、安心感を与えることが重要です。(介護職員は、事実ではないと理解しつつも、女性の感情的な気持ちに配慮し、平静さを保って対応する必要があります)
事例4暴力的な言動への不安
認知症の進行に伴い、興奮して介護者に手を上げようとする男性がいらっしゃいます。
危険を回避するために、力で抑えつけたり、強い口調で制止したりすることは、男性をさらに感情的にさせ、状況を悪化させる可能性があります。
まずは介護者自身の安全を確保しつつ、平静さを保ち「どうされましたか?何かお手伝いできることはありますか?」と落ち着いた声で話しかけます。男性の興奮の原因を探り、可能であれば取り除くように努めます。そして安全な距離を保ちながら、男性の感情的な条件が落ち着くのを待ちます。また必要に応じて、他の職員にヘルプを求めることも重要です。(介護職員は、恐怖を感じながらも、男性を刺激しないように、プロとして冷静に対応することが求められます)
これらの事例からわかるように、認知症介護においては形式的なニーズに応えるだけでなく、利用者の感情的なニーズを理解し、感情労働としての感情の表出や抑制が不可欠となります。
感情労働は、介護者に大きな心理的な負担をもたらす可能性があります。自身の本心を抑え、常にプロとしての感情を表出することは、精神的な消耗につながります。特に、認知症介護の現場では、予測不可能な状況やコミュニケーションの難しさから、より徹底した感情労働が求められることが多いと言えるでしょう。
古市孝義氏の研究(2017年 大妻女子大学人間関係学部紀要)や吉田輝美氏の研究(2014年 「感情労働としての介護労働」旬報社)などが示すように、介護職における感情労働は、介護職員のストレスやバーンアウト(燃え尽き症候群)と深く関連しています。 永続的な感情の管理は、自己評価の不安定さやプロフェッショナルとしての自信の低下につながり、最終的には離職という深刻な問題を引き起こす可能性もあるのです。
また、介護現場には、「親密化を抑制する感情規則」と「親密化を促進する感情規則」という相反する二つの感情規則が存在することも、感情労働を複雑にしています。
利用者との適切な距離感を保ちつつ感情的なニーズに応えるという複雑な状態は、介護者を常に葛藤の中に置く可能性があります。
感情労働へのサポート
より良い介護のために
認知症介護における感情労働の重要性を理解し、介護者を感情的な負担から守るためのサポート体制を構築することが、今後のより質の高い介護の提供には不可欠です。
* 感情労働に関する研修の充実
利用者との効果的なコミュニケーションスキル、共感的な関わりの仕様、自身の感情を理解しコントロールする方法などを学ぶ機会を提供する必要があります。事例検討会などを通して、具体的な場面での感情労働について多面的な議論を行うことも有効です。
* メンタルケアの強化
介護者が自身の感情を開放的に表現できる場や、 心理的なサポートを受けられる体制を整えることが重要です。カウンセリングサービスの提供や、同僚との感情面でのサポート体制の構築などが考えられます。
* 職場環境の整備
経験の浅い職員が困難に直面した際に相談しやすい環境づくりや、段階的かつ体系的な教育システムの構築は、感情労働によるストレスを軽減する上で重要です。チーム内での情報共有や相互支援を促進する組織体制も有効でしょう。
* 感情労働の適切な評価
介護者の感情労働としての努力を適切に評価する 制度を導入することも、モチベーションの維持につながります。
まとめ
心と体、両面からのサポートが不可欠
昨今、高齢者虐待の問題やアンガーマネージメント(介護者の怒りのコントロール)の問題が話題となることの多い介護業界ですが、身体介護も身体への介護という手段をもって利用者に心地よく過ごしていただくことが目的であると考えます。
身体介護も必要とされている認知症の方への介護は、より一層複雑で、身体の心地よさに加えて混乱している気持ちへの対応が必要になってきます。
また、記憶障害や見当識障害、理解・判断力の障がいといった中核症状だけの認知症の方の場合をベースとしつつ、徘徊や暴力、せん妄などPTSDと呼ばれる周辺症状が出ている方々は、その理由も表れ方も百人いれば百通りです。
それだけに認知症介護は、身体的なケアだけではなく、利用者の感情的なニーズに応える多面的な感情労働を必要とするプロフェッショナルな仕事です。
そんな介護者がプロフェッショナルとして誇りをもち、質の高いケアを提供し続けるためには、感情労働自体の存在とその重要性を社会全体が理解し、何らか形のあるサポートと感情労働への理解という両面から、介護者を支える制度を創出していく取り組みが不可欠と言えるでしょう。
この記事の執筆者
江頭 瑞穗
神奈川県出身 1987年設立の 学校法人国際学園 横浜国際福祉専門学校にて、介護福祉士、社会福祉士、社会福祉主事(任用)、保育士、幼稚園教諭などの養成を行う学科、コースの設立を主導し、事務長、事務局長を経て1991年理事長に就任。1995年同職を辞し、学校法人、社会福祉法人のコンサルタント業務を開業。
翌1996年 株式会社日本アメニティライフ協会を設立し、グループホームケアの実践を行うと共に、神奈川県、東京都に限定した介護事業を展開。現在、子会社にて日本語学校を経営するとともに、社会福祉法人理事として特別養護老人ホーム、老人保健施設、また医療法人理事としてクリニックの経営に携っている。

