ノーベル賞とアルツハイマー病

ノーベル賞とアルツハイマー病

 2025年のノーベル生理学・医学賞は、大阪大学の坂口志文特任教授(当時)が発見した制御性T細胞(Treg)の役割解明とその免疫抑制機構の研究に授与されました。

 Tregは免疫が自分自身を攻撃するのを防ぎ、免疫バランスを保つ重要な細胞で、この発見は多くの病気の治療法開発に貢献していると高く評価されています。

 特に注目を浴びているのが、免疫の暴走を抑える「ブレーキ役」として自己免疫疾患やアレルギー治療、がん治療への応用ですが、実はアルツハイマー病への応用も研究されていて、今までとは違ったアプローチからの治療法が期待されています。

アルツハイマー病とアミロイドカスケード仮説

 アルツハイマー病の有力な仮説として「アミロイドカスケード仮説」というものがあります。
この仮説を簡単に説明しますと、まず脳内にアミロイドβが異常に蓄積することが、病気の始まりと考えられています。

 健康な人の脳でもアミロイドβは作られていますが、通常は免疫の働きや睡眠をとることなどで分解・排出されています。しかし何らかの理由でアミロイドβが塊「アミロイドβ班(老人班)」になると排出されにくくなり、脳に蓄積することとなります。

 この蓄積はシナプス(神経細胞同士が情報を伝え合うためのつなぎ目)の機能の障害や神経細胞自体への毒性、慢性的な炎症反応を引き起こし、タウタンパク質という脳内物質を過剰にリン酸化していきます。

 リン酸化されたタウは神経細胞の内部から剥がれ落ち、細胞内で凝縮して最終的には不溶性の「神経原繊維変化」という塊を形成し、これが神経細胞にたまると細胞内の物質輸送システムが壊れてしまい、栄養や情報が細胞内に行き渡らなくなります。

 その結果、神経細胞は正常な機能が出来なくなり最終的には死に至り、認知機能の低下を生じさせるというものです。

慢性炎症と制御性T細胞による新たな治療アプローチ

 しかし、近年の研究で、これらタンパク質の蓄積に加えて、「脳内の過剰な炎症(慢性炎症)」が神経細胞を破壊し、症状を悪化させていることが分かってきました。

 ヒューストン・メソジスト病院(Houston Methodist Hospital)で進められている、制御性T細胞(Treg:ティーレグ)を用いたアルツハイマー病治療の研究は、従来の治療法とは異なる「免疫系の調整」という新しいアプローチとして世界的に注目されています。

1. アルツハイマー病と「脳の炎症」

 これまでアルツハイマー病の主な原因は、前述の仮説の通り、脳内に「アミロイドβ」や「タウ」というタンパク質が蓄積することだと考えられてきました。

 しかし、これに加えて、脳の免疫を司る「ミクログリア」という細胞が、異常タンパク質を排除しようとして暴走し、健康な神経細胞まで攻撃してしまうということが分かってきました。

2. 制御性T細胞(Treg)とは何か?

 Treg(Regulatory T cells)は、私たちの体内に存在する免疫細胞の一種で、いわば「免疫のブレーキ役」で、その役割としては、免疫系が暴走して自分自身の体を攻撃しないよう抑制し、炎症を鎮めることにあります。

 アルツハイマー病の患者は、このTregの機能が低下していたり、数が不足していたりすることが報告されています。その結果、脳内の炎症が止まらなくなっているのです。

3. ヒューストン・メソジストの研究内容

 ヒューストン・メソジスト病院のスタンレー・アペル博士(Dr. Stanley Appel)らのチームは、患者自身のTregを強化して体内に戻すことで、脳の炎症を抑える治療法を開発しました。

治療のプロセス(体外増殖法)
  • 患者から血液を採取し、その中からTregを取り出します。
  • 特殊な技術を用いて、体外でTregの数を数億個にまで増やし、さらにその炎症抑制機能を高めます。
  • 強力になったTregを、再び患者の静脈から点滴で戻します。
臨床試験(治験)の結果と分かったこと

 2026年現在までに報告されている初期の臨床試験(第1相試験など)では、以下の画期的な成果が得られています。

安全性の確認
患者自身の細胞を使うため、拒絶反応や深刻な副作用はほとんど見られませんでした。
進行の抑制
8人の患者を対象とした試験では、Tregの投与期間中、認知機能の低下が大幅に緩やかになる(あるいは一時的に停止する)ことが確認されました。

脳内の変化
画像診断により、脳内の炎症マーカーが減少していることが示されました

4. この研究の何が優れているのか?

 従来のアルツハイマー薬(アミロイドβを除去する抗体薬など)は、いわば「ゴミ掃除」を目的としています。対して、ヒューストン・メソジストのTreg療法は、「火事(炎症)を消し、環境を整える」ことを目的としています。

多角的なアプローチ
脳内の炎症を抑えることで、アミロイドβの蓄積自体も抑制される可能性が示唆されています。
他の難病への応用
アペル博士は、この手法をALS(筋萎縮性側索硬化症)やパーキンソン病にも応用しており、同様に良好な結果を得ています。

5. 今後の展望と課題

 現在、研究はより大規模な第2相試験へと進んでいます。

実用化への課題
自分の細胞を培養して戻す治療(個別化医療)は、非常にコストがかかり、手間も要します。これをいかに安価に、多くの病院で実施できるようにするかが今後の鍵です。
可能性と期待
この治療が確立されれば、初期から中期のアルツハイマー病患者にとって、病気の進行を長期にわたって食い止める「希望の光」となるでしょう。

 ヒューストン・メソジスト病院によるTreg療法は、「自分の免疫の力で脳の炎症を鎮める」という、極めて自然で理にかなった次世代の治療法です。2026年現在、認知症治療のフィールドは「原因物質の除去」から「免疫バランスの修復」へと大きな転換期を迎えています。

 詳細な情報は、Houston Methodistの公式サイト(英語)などで最新の研究ニュースを確認することができます。

 AIによると、Tregによるアルツハイマー病へのアプローチはヒューストン・メソジスト病院だけではありません。いかに主たる研究機関をご紹介します。

スタンフォード大学医学部(米)
 免疫老化・Tレグ研究の世界的拠点であり、アルツハイマー病におけるTreg機能低下、炎症制御についての基礎レベルでの解析をしています。
ハーバード大学医学部(米)
 脳免疫(ミクログリア)研究の中心であり、アミロイドβ → 炎症 → タウという流れを免疫視点で統合し、Tレグを直接操作するより、免疫環境全体の再設計に重点をおいています。
国立老化研究所(NIA/NIH)(米)
 アメリカのアルツハイマー研究の司令塔で、Tレグ研究を、神経炎症、免疫老化という視点から重点支援していて他施設共同研究を推進しています。
メイヨー・クリニック(米)
 認知症患者についての臨床データが非常に豊富で、免疫プロファイルや炎症マーカーを追跡していて、どの患者が免疫介入に向くかの選別研究をしています。
パスツール研究所(仏)
 Tレグ研究の総本山の一つと言われていて、アルツハイマー病を自己免疫・慢性炎症の延長線で捉える立場をとっています。
シャリテ医科大学(独)
 神経炎症・免疫老化研究が強く、Tレグ機能低下と認知症進行の解析をしています。
東京大学 医学部(日)
 免疫老化・炎症性疾患研究から高齢者におけるTレグ機能低下フレイル・認知症の関係を解析しています。
理化学研究所 脳神経科学研究所(日)
 ミクログリアと神経炎症研究の中核で、タウ病理と炎症の関係を詳細に解明、Tレグを含む末梢免疫との連関を解析しています。

 大阪大学の坂口先生の世界的な発見が、アルツハイマー病という認知症の分野でも活用されていくとすれば、認知症治療や認知症ケアに大きな一変革をもたらしてくれるものと期待しています。

この記事の執筆者

江頭 瑞穗

神奈川県出身 1987年設立の 学校法人国際学園 横浜国際福祉専門学校にて、介護福祉士、社会福祉士、社会福祉主事(任用)、保育士、幼稚園教諭などの養成を行う学科、コースの設立を主導し、事務長、事務局長を経て1991年理事長に就任。1995年同職を辞し、学校法人、社会福祉法人のコンサルタント業務を開業。
翌1996年 株式会社日本アメニティライフ協会を設立し、グループホームケアの実践を行うと共に、神奈川県、東京都に限定した介護事業を展開。現在、子会社にて日本語学校を経営するとともに、社会福祉法人理事として特別養護老人ホーム、老人保健施設、また医療法人理事としてクリニックの経営に携っている。

この記事は医師に監修されています

医療法人社団飛峯会
八王子北クリニック
理事長・院長
松田 兼一 先生

早稲田大学理工学部および大学院理工学研究科を修了後、千葉大学医学部を卒業。救急医療や集中治療を専門とし、東京慈恵会医科大学附属柏病院や千葉大学医学部附属病院での勤務を経て、山梨大学医学部で教授として救急集中治療医学講座を担当。
また、米国ミシガン大学での研究員経験も持ち、国際的な視点を活かした医療に携わる。現在は医療法人社団飛峯会八王子北クリニックの理事長・院長を務め、地域医療や在宅医療にも力を注ぐ。日本救急医学会および日本集中治療医学会の専門医として、幅広い医療分野に貢献。