介護を本音で話そう【実録】家族介護を、どう乗り越えたのか?

介護を本音で話そう・家族編

【実録】介護は優しいだけでは続けられない、我慢の糸が切れた日

家族介護では、「優しくしたいのにできない」と感情がぶつかってしまうことがあります。今回は、そんな介護の中で起きた実際のお話をご紹介します。

実録:「介護は優しいだけでは続けられない」

これは、介護が必要になった母の行動に、さまざまな感情が入り混じり、どうしたらよいのかわからなくなって泣き出してしまった時の話です。

「我慢の糸が切れた日」

私は、息子の中学校入学をきっかけに、両親の住む実家を離れ、「スープの冷めない距離」に引っ越しました。最初のうちは、母から一日に何度かかかってくる電話も、「心配しているのかな」と思っていました。

しかし、日に日に電話の回数は増えていきました。

「そっちの生活はどう?」

「鍵は閉めている?」

最初は、何か目的があって電話をしてきているのだと思っていました。けれど、一か月ほど経ったころから、同じ内容を何度も話したり、電話を切ってもすぐにまたかかってきたりするようになりました。そして、だんだんと中身のない電話が増えていったのです。

思わず「それ、さっき話したよ」と言うと、
母は「そうだったね、それでね……」と話し始めるのですが、その先の話が続かないのです。

姉に相談すると、「寂しいだけじゃない?」と言われました。そう考えれば、そうなのかもしれないとも思いました。

しかし、電話の回数はさらに増えていきました。仕事や買い物で家を空けている間、私の携帯には何本も実家から着信が入っていました。家の留守電には、「なんでいないの、電話ください」という同じメッセージが何度も録音されていました。

帰宅後、いつものように母へ電話をすると、「最近、実家に来てくれないから」と言うのです。

そして数日後、また同じように家を留守にしていました。留守電には、家の電話にも携帯にも、「電話ください」というメッセージだけが入っていました。

帰宅後、実家へ電話をすると、父が出ました。

「母さん、さっきまでいたぞ」

電話を切った瞬間、玄関から「ガチャ」という鍵の音が聞こえたのです。

息子が帰ってきたのかと思いましたが、玄関の前に立っていたのは母でした。

渡した覚えのない鍵を、なぜ母が持っているのか。しかも、自分の家でもないのに、インターフォンも押さずに鍵を開けたのか、混乱しました。

「お母さん、なんでここにいるの!」思わず大きな声を出してしまいました。
母は、「電話に出ないから心配になって来たのよ」と言いました。

私はさらに、「私、この家の鍵渡してないよね? なんで鍵を持っているの?」と聞きました。

すると母は、「引っ越す前に合鍵を作っておいたのよ。作っておいてよかったわ」と答えました。

その発言に驚き、私はカーっと頭に血が上り
「なんで勝手なことするのよ!!」とさらに大きな声を出してしまいました。

驚いた母は、その場でしりもちをついてしまいました。

――あ・・・大きな声で怒ってしまった。――

そう思った瞬間、母を助けるどころか、私は頭を抱え、その場に座り込んでしまいました。

電話が落ち着いたかと思ったら、今度は家まで来てしまった。それも、渡した覚えのない我が家の鍵を持ち、自分の家のように勝手に鍵を開けていた。

何度同じことを言われても耐えてきた。録音がいっぱいになるほど留守電が入っていても、我慢してきた。

抑えなければいけないとわかっていたのに、怒ってしまった。大きな声を出してしまった。

一歩間違えば、手が出ていたかもしれない。

怒り、怖さ、後悔――いろいろな感情が入り混じり、私は床にうずくまって泣いていました。

そこへ、ちょうど息子が帰ってきました。

状況を見た息子は、「二人ともどうしたの?」と言いながら、しりもちをついた母を家に入れてくれました。

私の様子を見て普通ではないと思った息子は「おばあちゃん、冷たいものでも飲もう」と自分の部屋に連れていき、母と話をしてくれました。

様子が気になり息子の部屋に行くと息子は、「母さんは休んでて。落ち着いたら、おばあちゃんをタクシーで送ってくるから」と言いました。

正直、その時の私は、母と顔を合わせるのも怖くなっていました。私は息子の気遣いに甘えることにしました。

そして暗くなる前に、息子はタクシーで母を実家まで送ってくれました。

気持ちが少し落ち着いてきた時、私は「なんで私は抑えられなかったんだろう」と考えていました。

もし、あのまま感情を抑えられなくなっていたら――。
もしかしたら、手が出ていたかもしれない。
それは虐待ではないか。そう思ったとたん、また涙がでてきました。

救いは息子でした。
「『おばあちゃん、合鍵作って勝手にうちに入るってやりすぎだよ、ちゃんと約束してから来てよ』ってタクシーの中で話したら、分かったって言っていたよ。」
「孫だから聞いてくれることもある」その言葉で私は少し気持ちが軽くなりました。

実録:「父の前で泣いた日」

「こげんことで泣くなと言われて育った僕が泣いた」

僕は、父が怖かった――剣道七段の剣豪だった父は、僕が子どものころから厳しい人でした。

九州育ちの父は、僕が泣いていると「男がこげんことで泣くな、情けなか!」「こげんこともできんか!」と怒ってばかりで、僕はいつも涙をこらえていました。

母も見かねて「なぜ、Tにだけ厳しくするの?」と聞くと、父は「Tは長男やけん、この家を継ぐ人間や。厳しくせんといかん!」と言い、その考えを変えようとはしませんでした。剣道七段、力でも敵わない。子どもの頃の僕は、父に怖さしか感じていませんでした。

そのためか、僕は高校卒業後、家から離れるように遠方の大学へ進学しました。

就職してからも、実家にはあまり帰らず、転勤先が実家に近い一時期だけは、住んだこともありましたが、残業や出張が多く、父と関わることは少なかったのです。

ちょうど実家に住み始めて半年ほどしたころ、「どうやらお父さん、認知症らしいのよ。最近めっきり気力もなくなって……」と母から言われ、僕は思わず「それくらいでちょうどいいんじゃない」と言ってしまいました。

その後の父は、調子が良い時はしっかりしていて、何でもできていました。しかし徐々に、ぼーっとしていることが増え、トイレを失敗するようになり、言ったこともすぐ忘れるようになっていきました。

そして父自身も、「俺、何にもできんな。どうしたんかな?」と言うようになり、弱気になっていったのです。

僕は、トイレの失敗を片付けながら、「自分がやったもんは、父さん、自分で片づけんとあかんやん」と言っていました。時には、「こんなこともできんようになったのか」と、冷たく言ってしまうこともありました。

それから月日が経ち、あれほど健康だった父が肺炎になり、入院しました。

以前は庭の草刈りや、近所の子どもたちに剣道を教えていた父が、病院のベッドで寝たきりになったのです。

母からは、「回復してリハビリが始まっても、気力を感じなくなった」と連絡がありました。

そして父の面会に行ったとき、昔の見る影もないほど弱々しくなった父を見て、胸が詰まり、言葉が出ませんでした。

心配になった僕は、一週間休みをとり、実家に泊まりながら、毎日病院へ通いました。
しかし父は、リハビリにもなかなか気持ちが向かない様子でした。
理学療法士の方も、「きっかけがつかめないんです。反応も薄く、無気力というか……」と話していました。

思わず僕は父に向かって、
「剣道七段のあんたが何しとる! 早よ稽古せんか!」
と言い、ベッドに横になる父を起き上がらせ、剣道の「メン!」という掛け声をさせました。

病み上がりで大きな声が出せない父は、細々と「メン」と返しました。
「父さんは面取りの名手やろ。行くで、素振りや、メン!」
よろよろとしながら、父は「メン、メン」と細い声を出し、摺り足で歩き始めました。
の姿を見ているうちに、僕は涙が出そうになり、必死にこらえました。

理学療法士の方は「剣道をされていたんですか。ありがとうございます。いいきっかけになります」と言ってくれました。 それでも、「なんで僕は、もっと優しくできないんだ」と思い、複雑な気持ちでした。

面会を終えてエレベーターに乗った瞬間、こらえていた涙があふれて、人目もはばからず泣き続けました。

その涙は、子どもの頃に厳しくされたことへの思い、認知症の父に冷たくしてしまった後悔、弱々しくなってしまった悲しさ、そして、あんなに強かった父がこのままでいてほしくないという思い――そんな感情が入り交じっていたのです。

実家に帰ると、僕は新聞紙を使って竹刀ほどの太さの棒を二本作り、次の日それを持って父の面会に行きました。看護師や理学療法士の方に許可を取り、剣道の素振りをしながら歩く練習をしようと思ったのです。
それから毎日、リハビリの時間に合わせて面会へ通いました。

そして休み最後の日、理学療法士の方が「しっかり歩けるようになりましたね。いい息子さんをお持ちですね」と言ってくれました。
すると、「Tは、優しい子でな。どんなに怒っても言い返さん子やった。気が弱いんじゃない、優しいんだ」と父は言いました。

「父さん、仕事があるから今日で帰るけれど、また来るけん。早よ元気になってな」
この日、僕は父が自分にとって大切な存在だったことに気付き、また涙があふれました。

介護の裏ではいろいろな涙の形があります。

限界を感じた「辛さの涙」、きついことを言ってしまった「後悔の涙」、どうしたらよいかわからない「困惑の涙」、改めて感じる家族への「感謝の涙」。

そして、介護で流す涙は、「いろんな味がする」のです。

この記事は介護福祉士に監修されています

介護福祉士
青木 いづみ

母親の認知症をきっかけに、サービス業から介護の道へ転身。サービス業で培ったコミュニケーション力と、介護職員や施設長としての知識や経験を活かし、入居相談員として家族が抱える悩みに寄り添っています。介護現場の視点、利用者目線、専門知識を基にした丁寧な相談を行っています。